【教主美文】《夜宴》の欲望と孤独

《夜宴》の欲望と孤独
■黄晓明 (2006-09-22)

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映画《夜宴》(邦題:女帝-エンペラー-)がついに上映された。外地での撮影ばかりだったので、本編を通して見る機会をまだもてていない。各地のプロモーションは、北京と上海にだけ参加することができた。今一番したいのは、どこかの映画館に入って静かに映画の全編を鑑賞すること。

僕はこの映画の製作に、一人の参加者、一人の学習者として関わった。だから多くは望んでいない。観客の皆さんに、僕がこの映画の脚を引っ張っていると思われなければそれで合格だと思っている。
ここ最近、メディアが一番聞いてくるのは、殷隼が青女に太子が死んだと嘘をつき、彼への想いを断ち切らせようとしたシーン、それから青女を後ろから抱きしめる場面についてで、これは殷隼が青女に対して妹に対する以上の愛情を抱いていると誤解されるのでは?ということだ。

撮影時、僕もこの表現は前から抱きしめるのとはまた違ったものになると感じて、疑問をぶつけてみたことがある。最終的には監督の意思に沿った演技をすることになった。今になって、やはりたくさんの人がこの役について議論し始めるとは正直思っていなかった。でもそんなふうに議論してもらえるのはそう悪いことじゃない。観客がいろんなふうに想像する余地を与えたってことだから。

《夜宴》が広州で初めて上映されたとき、友達がメールをくれた。笑うべきではないシーンで笑いが起こっていたと。最初それを聞いたときは、一体どうして、と思ったけれど、それもまあ想定内だといえるだろう。この作品はアーティスティックな映画だといえる。こういう映画は観客によって好みの違いが大きく、いいと感じる人もそうでない人も出てくる。
アートというのは独立的で、個性的な表現があってこそのもの。個性的なものは全ての人が受け入れられるとは限らない。中国は人口も多いから、ひとつの作品を鑑賞する視点も差異が出てくるのだと思う。

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一人の観客として、客観的な視点で見るとき、僕はこの映画が可笑しいとは思わない。僕としては、この映画の背景にあるもの、登場人物それぞれの内面について考えるとき、きっとある種の哀しみと孤独を感じ取ってもらえると思いたい。
撮影中、あの宮殿に入るたび、ライトが僕を照らし、監督がスタートの掛け声をかけると、“越人歌”が鳴り響き、一気にその場の雰囲気が高揚していく。僕はその度、緊張して鳥肌が立った。
《夜宴》は人間の内面の一番計り知れない部分、そして同時に一番わかりやすい部分を読み解き、観客につまびらかにして見せた映画だ。じっくりと鑑賞すれば、もっとその思いが伝わってくると思う。

映画の興行成績については心配していない。これはとても周到に作られた作品だ。音楽、セットなどのディテールもこれでもかというくらい凝って作られている。冯監督も、物語をより生き生きと魅せてくれる人だ。この映画は、関わった全てのスタッフの努力の結晶。この映画を見た全ての人がじっくりとこの映画の世界を堪能し、見た後でじっくりと味わい、その欲望と孤独を感じ取ってくれればとても嬉しい。

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